名監督が名GMになれるとは限らないが…名監督じゃなくても名GMにはなれた人物

特に大発見ではないですが、最近思い出して、そういえばこういう例があったなぁ…と思ったことを書きます。


中日ドラゴンズが大変なようです。

落合GMの下で就任した谷繁監督がシーズン中に退任(実質上は解任?)したり…

ドラゴンズのフロントのYahoo!ニュースを見ると、

「名監督が名GMになれるとは限らないんだな」

と言うのがありました。


多分そうなんでしょう


落合監督のもと、ドラゴンズは何度もリーグ優勝し、過程に賛否の両方の声もありますが、1954年以来の日本一も達成しました。

しかし落合氏がGMに就任すると、Aクラス入りもままならない状況となってしまいました。

(ちなみに、12球団で最もAクラス入りから遠ざかっているのはドラゴンズだそうで、最後にAクラス入りしたのは2012年だそうです。

Aクラスに入れるかどうかの基準だけで見ると、12球団の戦力差は縮まったようです)

※私は落合氏のことは大好きです



過去にも、監督としてヤクルトスワローズと西武ライオンズを初めてリーグ優勝と日本一に導いた広岡達朗氏が、千葉ロッテマリーンズに就任したことがあります。

数字だけを見ますと、前年5位のチームを2位に引き上げたので大成功のように見えますが、チーム内部は崩壊寸前にまでごたごたしたようで、翌シーズン末に3年契約を1年残して解任されました。

※私は広岡氏のことは大好きです


ところで、ここまで書いてきて、チームを優勝させるほどの名監督ではなかったものの、GMとしては日本一に導いた人物がいたことを思い出しました。

根本陸夫氏です。

根本氏は広島東洋カープ、クラウンライターライオンズ(~西武ライオンズ)、福岡ダイエーホークスと3球団で12年間の監督を務めましたが、Aクラス入りはカープ初年度の1968年のみです。

ちなみにそのAクラス入りが、カープにとって創設以来初めてのAクラス入りでした。

のちにその当時の主要メンバー、衣笠祥雄選手や山本浩二選手によって、カープの第一次黄金時代が訪れることになります。


ライオンズでは監督辞任後、「管理部長」と言う名称でフロント入りしましたが、今でいう「GM」と言う仕事と同義だったと思います。

広岡監督を招き、有望な選手を入団させて、埼玉のライオンズとしての黄金時代を築きました。


ホークスには1993年に、フロント入りを前提として監督に招かれたようです。

2年間その職をつとめ、また有望な選手を集めた後に王貞治氏に監督の座を譲ります。

その後も有望な選手を集め、補強を進めました。

そして1999年に、福岡のホークスとしては初めてのリーグ優勝、日本一に導きました。

それが成し遂げられる前、1999年4月30日に、根本氏は逝去していましたが、今のホークスがあるのは、間違いなく根本氏の功績だと考えます。


その手腕は、けっしてクリーンだったと言い切れるものではなかったと思いますが、球界に大きな足跡を残したのは否定できないでしょう。

スカウト時代は「根本さんは郵便ポストまで友達にしちゃうからなぁ…」とあきれられるほど、人脈を作るのがうまかったそうです。

監督と違って、GMと言う仕事は人脈が大事、と言う意見を読んだことがありますが…

そう考えますと、人に嫌われたりする人には向いていないのかもしれません。

逆にそういう人、例えば広岡氏などは、「劇薬として」低迷するチームには監督としてうってつけなのかもしれません。

恐れられること…それは監督にもGMにも「人を恐れさせて動かす力」は必要だと思います。

しかし、「人に好かれて動いてもらう力」のほうが、どちらにも望ましいでしょう。


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