1989年〜僕がグリーンベイ・パッカーズのファンになった年に起きたこと
ベルリンの壁崩壊は1989年11月9日のことです。
私は社会人2年目。
一応ドイツ史のゼミにいて、ドイツ史の卒論を書いた私ですが、不勉強だったせいか、こんなことが起きるとは、大学卒業当時は想像もできませんでした。
前年の1988年、入社式で当時の社長が
「パクス・アメリカーナ」
(アメリカの支配による平和)
と言う言葉を使っていました。
その後の懇親会で社長に話しかけられ
「歴史専攻とは、変わったところから来たな。
私の言葉の中でおかしいところはなかったか?」
と尋ねられました。
「正確には
「パクス・ルッソ・アメリカーナ」
(ソビエト連邦とアメリカの対立の均衡の上の平和)
ではないでしょうか?」
と私は答えました。
「そうか、そうか」
とニコニコしながら、社長はどこかに歩いて行きました。
社長は技術畑出身でしたが、もうその時、ソ連の疲弊を読んでいたのかもしれません。
閑話休題
そうか、「ベルリンの壁崩壊」も1989年のことだったか・・・
私は1989年11月19日(米時間)の試合を見て、グリーンペイ・パッカーズのファンになりました。
同時に完全にアメリカンフットボールにはまりました。
まさか、いまだにハマっていて、アメフト中心のブログを書いているとは思いませんでしたが…
1989年と言えば、「ベルリンの壁崩壊」、つまり全体主義的な社会主義が崩壊して、自由主義が拡大するのとともに、対照的に、「天安門事件」が6月に起きました。
ビリー・ジョエルの歌、
「ハートにファイア」
(原題:We Didn't Start the Fire)
は、戦後アメリカを中心とした世界の歴史を並べた曲です。
最後の1989年に「天安門事件」が
「China's under martial law(戒厳令下の中国)」
として出てきます。
「ベルリンの壁崩壊」を含む東欧社会主義の崩壊と、12月のマルタ会談による
「冷戦終結宣言」
は、この曲のリリースには間に合いませんでした。
日本は昭和64年を迎えましたが、昭和天皇の崩御により、1月8日から平成元年になりました。
1月6日(金)の夜、東京の阿佐ヶ谷にある会社の寮の私の部屋に、会社の同期が遊びに来ました。
夜遅くまで飲んで、同期は泊まっていきました。
まだうちの会社は週休2日ではなく、翌土曜日の1月7日、川崎の会社に向かう途中の東京駅で、昭和天皇の崩御のアナウンスを聞きました。
私として印象深いのは、第一回東京国際映画祭が開かれ、その後今でも自分の中での最高の映画
「フィールド・オブ・ドリームス」
(Field of Dreams)
が上映されました。
映画館で映画見ることが滅多にない私ですが、この映画目当てに見に行きました
福岡ダイエーホークスは、このシーズンから本拠地を福岡平和台球場を本拠地として、公式戦を戦い始めました。
1978年シーズンオフ、クラウンライターライオンズが埼玉所沢に去ってから10年余、野球が福岡に帰ってきました。
そう言えば、9月24日(誕生日)に生まれて初めてTOEICを受けました。
ジャスト600点でした。
それ以来、理由はないですが、TOEICは受けていません。
このように、日本としても、世界的にも、私にとっても、1989年は大きいことがありました、
でも、やはり最も大きな出来事は、アメリカンフットボールにはまったことでした。
それがなければ、私の人生は大きく変わっていたでしょうから。
ここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。
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